2015年05月23日

血の日曜日



今回は戦後初のドイツ軍による銃撃戦といわれるあの事件を振り返って見ましょう。

※いきなり訂正で申し訳ないのですが「戦後初のドイツ軍による銃撃戦」はこれ以前にも起こっているので、正確には「銃撃戦による殺害が認められた事件」です。
「Operation Libelle」




この動画、一度はご覧になったことがあるのではないでしょうか?

ドイツ連邦軍のコソボ派遣部隊が黄色いラダに銃撃を加えている様子なのですが……


銃撃戦が起こったのは1999年6月13日の日曜日、場所は連邦軍が治安維持を担当するプリズレン

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背景として、KFORが国連安保理に採択されるのが99年6月10日。
この日コソボからユーゴスラビア軍・セルビア治安維持部隊が撤退、コソボ解放軍も武装解除されます。
連邦軍の派遣部隊がコソボに派遣されるのが6月12日なので、現地で任務に就いてから間もなく銃撃事件が起ったわけです。

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事件当日、アルバニア人の民俗祭が行われているところに、
アルバニア人とNATO軍を良く思わない2人のセルビア人が武器を持ちラダに乗ってやってきたのが事の始まり。
ラダはチェックポイントでの連邦軍兵士の制止を振り切り侵入してきました(酒酔いだったとの話もアリ)。


このとき運転手は手榴弾を、もう一人はカラシニコフを持っていたので、
これはただ事ではないとBWの兵士たちは警告を発しました。

"NATO, stani ili pucam!(止まらねば撃つ)"

(この警告はセルビア語・アルバニア語両方で発されたそうです)



このような警告にも関わらずラダは不審な動きを見せ続けます。
兵士たちが合計220発の銃弾を浴びせようとするまでそう時間はかかりませんでした。



現場で指揮に当たっていたDavid F少尉(当時24歳)が最初に発砲。
続いて少尉の指揮下の6名の兵士があわせて180発の銃弾を撃ち込みました。

このうちほとんどはG36によるものかと思われますが、
動画ですとレオパルト2の砲塔の後ろから拳銃(P8?)を発砲している将兵も見られます。

同時にレオパルト2に搭載されているMG3からは40発が撃ち込まれました(動画でもそれらしき銃声が)。

またこの時カラシニコフの跳弾を受けて兵士1名(Oberfeldwebel)が負傷しています。




結果運転手は即死、もう1人は十数発の弾を受けており搬送先の病院で死亡が確認されました。

この事件は後に「血の日曜日(Bloody Sunday)」事件と呼ばれることとなります。

発砲に関しては連邦軍部隊の正当防衛が認められ、
David F少尉は状況に応じた模範的な行動を取ったとして勲章を授与されています。




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David F少尉以下6名の兵士は第571山岳猟兵大隊からの派遣だと言われています。

少なくともDavid F少尉は第571山岳猟兵大隊第2中隊第1小隊に属していたようです。


事件の際はブリストルアーマーを着用、武装は当時配備されたばかりのG36。

あまりにも緊急性が高かったためか、拳銃を撃っている隊員はヘルメットを着用していないようです。

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連邦軍の兵士達はこの後、中東でもっと苛烈な戦闘に巻き込まれてゆくことになるのですが、それはまた次回。





タグ :KFOR

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